2009年03月24日

no regret

成田翔一27歳。
27年の人生を思い返してみると、それなりに大きな「曲がり角」、ありました。
木ばかりをみていると森が見えないように、たまには自分の人生、空にまで駆け上がり、全体をじっくりと俯瞰することも必要なのかもしれません。
人がどういうふうに、どんなことを思い、生きていくか、生きているか。それは俺にはわかりません。けど自分の今までというものを振り返ってみると、必ずそこには「共に歩んでいるなにか」があったと感じます。

俺の場合、まず最初の曲がり角を迎えるまで、ずっとずっと一緒に歩んできたものがありました。
それに心底のめりこみ、それにどれだけ成長させられたか。
17歳で別れを告げるまで、ずっとずっとそれ一筋で生きてきました。
ここで言うそれは、
「サッカー」
です。

出会いは小学1年生。
そこからいつも生活の中心は、サッカーだったんです。
客観的に考えてみれば、のめりこんだものにはとことんのめりこむ、というかもうそれだけしか見えなくなってしまうんですね。
高校2年生でそれを投げ出すまで、暇があればボールを蹴る、キャプテン翼のような少年でした。
才能があったかなんてわからないし、そんなの関係なかったわけで、それなりに上手くなるのは、いつもそこに「努力」があったからだと、思っていました。
そして17歳までは、自分がプロの選手になって活躍している姿を、信じて、疑ったことは一度もなかったと思います。

今になって思い返してみると、別れを告げたことも、つまらない理由なんですよね。自分に勝てなかったというか、いくつも続けられない理由を探しては、それを口実にして逃げていたんです。
あのまま続けていたら、あの信じる気持ちを今まで持続できていれば、きっとプロになれずとも、また違う人生だったと感じます。
当時は思春期真っ只中。
家族や、環境。身の回りのもののせいにして、逃げ道を作り、目をそらし、大好きだったものを忘れたふりして、より楽な方向に進む。
後悔、反省。その思い出はいっつもホロ苦い味がします。

今朝、17歳、絶頂期だった自分の試合のビデオを、ヒョンなきっかけから観たんですよ。
自分でいうのもなんですが、
俺、うまい。笑

なんで続けなかったんだよ?と思わず自問自答してしまいました。
きっと冷静に考えるとその時の選択・判断があって、それが良くも悪くもしっかりと糧になって、きっと「今」があるんだろうけど。
「今」の俺なら、なにがあってもそれをきっとあきらめない。

けど逆に、そういうなにか「喪失」みたいなものを繰り返して、傷ついて、ボロボロになって、なおかつ成長できたんでしょう。

何が言いたいか?
今、自分の向き合っているもの。
今、当たり前に自分のそばにあるもの。
それにしっかりと感謝して、目をそらさずに、歩むべき道を判断すること。
外野はいつでも好き勝手なことを言います。
それに負けないだけの芯を持って、あきらめずに貫くこと。
その先に待っているのが成功なのか、失敗なのかは誰にもわからない。
けど、失敗ってなんだ?
その過程で手にするものを考えると、なにが失敗なんだい?

負けても負けても立ち上がること。
それができる人間は強い。

今、自分の人生で、「共に歩んでいるもの」。
再び始めたサッカーから、10年継続している「音楽」から、今は、そういうことを教えられています。


さっきも言ったけど、逃げる口実を作って目をそらすことは、簡単だ。
外野の意見に流されるのも、簡単だ。
けど、そうじゃないだろ?
全ては自分次第。
行き着くのはいつもこの結論だ。
けどこれだって、今まで色々なものを失ってきたから思えることなんだろうな。

だから今、自分の向き合っているものを、大切にする。
音楽だったり、築いてきた仲間との関係だったり、だんだんと年老いていく親だったり、一緒に成長している兄弟や、大切な人。
目をそらすことはもうしないし、逃げ道だっていらない。
「いつか終わりが来るとわかりきっているもの」
そういうものに俺は情熱を向けることが、できません。


ほぼ懐かしさだけで再生したサッカーの試合のビデオテープから、こんなことを学んだわけであります。

「才能」それは継続できる情熱だ。
確かに、その通りです。

夢を叶えるのは、逃げずに戦った、あんただけだ。

失ってきたもの。
今、手の中にあるもの。

たまにはゆっくり考えてみるのも、エエんじゃないでしょうか?




posted by 成田翔一 at 13:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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